七月

『晩春の旅 山の宿』    井伏 鱒二著

 先日読んだ岡武さんご推薦の随筆集である。「晩春の旅 山の宿 広島風土記 取材旅行 釣り宿」と五つに分かれている。巻末の「人と作品」は何と飯田龍太先生。井伏さんと龍太先生は膨大な往復書簡もあるくらいだから宜なるかなと思う。

 龍太先生は「この一集のなかの、一編をえらぶとしたら」と自問自答して巻末の「釣宿」を選んでおられたが、当方は「広島風土記」のなかの「志賀直哉尾道」を選びたい。何でも『暗夜行路』の執筆は尾道の古ぼけた棟割長屋に滞在してのことだったらしいが、同じ長屋の住人である婆さんとの交流に纏わる話である。ちょっと長いが一部を引用すると

どうも怪しいというので、村上のおばさんをはじめ近所の人たちは、アイ婆さんをのぞくほかは誰も志賀さんをおそろしい人だと思っていた。ところが志賀さんが尾道を引きあげた後、よほど年月を経てアイ婆さんのところへ、志賀さんから新刊の「暗夜行路」を送って来た。婆さんの鼻の高さはなみたいていではなかったが、この婆さんはろくに字も読めないし、もう目がかすんでこまかいものは見ることができなくなっていた。それで村上のおばさんが婆さんのために「暗夜行路」を少しずつ朗読してやることになった。近所の長屋のおかみさんたちも、それを志賀さんが書いたのかと集まって来て村上のおばさんの朗読を傾聴するようになった。

 雨の降った日や仕事のひまなときには・・・みんな傾聴するのであった。なかんずくその文中、アイ婆さんが尾道弁で話すところや尾道風景の描いてあるところを朗読する段になると、おかみさんたちの所望によって・・・くりかえしくりかえしそこを朗読した。するとアイ婆さんははおきまりのように涙にかきくれて、もうその部分だけは文章を暗記しているおかみさん連は声をそろえて暗誦する。

  こんなふうに「暗夜行路」を読み込んだのはこの長屋のおばさんたちだけではなかったかと筆者も驚いているが、何だか感動的な光景ではないか。実は「暗夜行路」は読んだことがないのだがアイ婆さんの登場するくだりだけでも読んで見たいと思ったことだ。この本によると志賀はその後も婆さんに金銭をとどけたりしてなにくれとアイ婆さんを気遣ったという。それもまた、いい話である。

 

 

 

     七月や激しき雨に目覚めたる

 

 

 

 

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晩春の旅・山の宿 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)

晩春の旅・山の宿 (講談社文芸文庫―現代日本のエッセイ)