山椿

『文学としての俳句』    饗庭 孝男著

 「俳句の十七字というものは容易ではない。短いから詠みやすい、と思う人は俳句などしない方がよい。」とのっけから厳しい。

 俳句や短歌という短詩系文学が文芸時評の対象から消えてしまったのはなぜか。もちろん文学として語るに足るものが乏しいということになるだろう。が、その遠因の一つとして「結社制度」があるのではないか。結社制度の内閉的性格が仲間うちでの安易な褒め合いとなり「自分を相対化しながら作品を深める契機を失ったのではないか。」文学などというのは内発的なものである。仲間内で和気あいあいというのではなくみずからの孤独に向き合ってこそ生まれでてくる。

 筆者の言わんとするところはおよそこんなことだろうか。結社制度にうんざりして飛び出した身にはうべなるかな。と言っても我が俳句に文学性があるというわけではない。

文学性がある俳句としてこの本で取り上げられた俳人は二十三人。総じて古い人が多い。一番最近の俳人としては龍太先生か。簡単には読みきれぬ内容なので一人ひとりじっくりと読ませていただきたい。

 それにしてもこの本はアマゾンのマーケットプレイスで1円であった。(送料別)新品同様に綺麗でこの値段。喜んでいいのか悲しいと思うべきか。

 

 

 

 

     山椿かつて鯨を獲りし海

 

 

 

 

文学としての俳句

文学としての俳句