余寒

古事記のひみつ』  三浦 佑之著

 先に読んだ三浦さんの本『風土記の世界』で感じた「古事記とは一体何なのか」という疑問を解くための一冊である。

 教科書ではどちらも天武天皇の詔で始まったが、『古事記』は稗田阿礼の誦習を太安万侶が編纂、『日本書紀』は舎人親王らの編纂と習った記憶がある。全く同時代に二冊の歴史書が作られたことには何の疑問も抱かなかったのだが、三浦さんによれば相矛盾するともいえる二冊らしい。

 『古事記』はオオクニヌシを始めとして神々の面白い逸話がいっぱいなので読んだことはあるが、各天皇の事績を編年体で記した『日本書紀』は読もうという気も起きず、二冊の内容に大きな違いがあるとは知らなかった。例えば『古事記』で多くを占める「出雲神話」は『日本書紀』には収録されず、『古事記』での悲劇の皇子ヤマトタケルは『日本書紀』では悲劇性はないという。

 この事実に三浦さんは、二冊は全く違う性質の書物だったとする。もちろん『日本書紀』は時の律令国家が目指した正史であるが、では『古事記』は何か。

 三浦さんは『古事記』の序文が怪しいという。九世紀初頭に書かれた別の文章に表現が極めて似ていることなどから、序文はこの頃の偽造ではないか。偽造は『古事記』の権威化のためになされたのではないか。だからこれが天武天皇の詔で作られたとするのは疑わしいというのだ。

 しかし、三浦さんは『古事記』本文を疑っているわけではない。表記や内容の古層性からおそらく7世紀後半までには書かれた。では誰が何のためにか、それはわからない。ただ古い時代のいくつかの言い伝えがありそれを収録したもののひとつとして『古事記』は残ってきたのではないかというのが答えである。だが紙というものが極めて貴重であった時代、古い言い伝えの収録・編纂には国家体制の何らかの意図があったには違いない。そんな気がする。

 『古事記』と『日本書紀』、あまり考えてもみなかったがなかなか面白い一冊であった。

 

 

 

 

     青菜の値たかどまりする余寒かな

 

 

 

 

古事記のひみつ―歴史書の成立 (歴史文化ライブラリー)

古事記のひみつ―歴史書の成立 (歴史文化ライブラリー)