「へんな子じゃないもん」 ノーマ・フィールド著

 先に読んだ本(「天皇の逝く国で」)と対照的に家族を軸に個人的な感慨をまとめた一冊である。ほぼ同時代に書かれたというのが共通点か。ノーマさんは日本人の母親とアメリカ人の父親との間に生を受け、当時の国籍法で日本国籍を持てなかった人。(1984年に国籍法が改正。父母同系血統主義になった)普段はアメリカ在住である彼女が、病に倒れた大好きな祖母の元で過ごしたひと夏のスケッチである。祖母はもう言葉を持たないほど重い病状であるが、母と介護をしつつ祖母と過ごした懐かしい日々を思い返す。ちょうどバブル期とその終焉期で、日本的な懐かしいものが次々と壊されていった時期でもある。「とりあえず過ぎ去る世界への愛着の歴史を残したかった」と言う。また、。こうした感慨の一方、丁度半世紀を迎えた「戦後」という節目についての言及も多い。原爆の被害者意識ばかりが問題にされる状況に対して、加害者としての反省を促す厳しさである。外から見れば被害ばかりを強調して加害意識を忘れた日本人には、情けなく恥ずかしい気持ちが強いのではないだろうか。その彼女も十年後の「あとがき」で当時はまだ「戦争体験とその意味が人びとの意識にあった、今から思えば幸せな時期だった」と書き、今(2006年)をして「明るい未来はどこを向いても展望できない。このごろ脳裏をかすめるのは『末法』ということば。」としている。

 ならば今(2017年)はなんと言ったらいいのだろうか。連日戦争前夜のような危機意識を煽られて、庶民はなすすべもない。Jアラートのような訓練をさせられても、何の役にも立たないことを庶民はよくわかっている。「平和は脅威にさらされたときはじめて陳腐であることをやめる。しかし脅威がやってきたときには、わたしたちは平和について考えるゆとりを失っている。」ノーマさんの言葉だ。

 

 明日は二十四節気の「白露」。大気が冷えてきて露を結ぶ頃である。今日は雨がちのせいか法師蝉も鳴かない。

 

 

 

 

     露けしや岩窟(いわや)に白きマリア像

 

 

 

 

へんな子じゃないもん

へんな子じゃないもん