蝉時雨

法隆寺の謎を解く』  武澤 秀一著

 確か、ブログを拝見しているこはるさんのお薦め本で、図書館で見つけて読むことにする。

法隆寺」は梅原さんの著作でもセンセーショナルな話題になったほど謎の多いお寺である。「法隆寺様式」という独自な建築様式が然り、元法隆寺と現法隆寺の関係もはっきりしない、などなど興味の尽きない謎が多い。これらの疑問に先人たちの考えを参考にしながら、建築学という独自な立場から著者の考えを記したのがこの本だ。

 中門のど真ん中の柱については「怨霊封じ込め」の梅原説に対して、伽藍空間の設計上の隠れた中軸である、中門のど真ん中の四本の柱が空間のバランスの元となっており、その意味では人の「ビテイコツ」に当たると説明する。

 金堂と塔に巡らされたややみっともないとも言えるも下屋(げや)についても、仏教誕生の地のインドの例を引いたりして納得させられる。つまり「裳階」は祈りの巡りの空間(ブラグダシナー・パタ)であると。確かにわれわれも「裳階」を巡って塔や金堂の中を覗き、祈りもした。塔や金堂を囲む長い回廊もやはり巡りの空間で、かっては講堂などの建物を取り込まずにぐるりとひと廻りをしていたらしい。

 さらに、興味深いのは次の考えである。今の法隆寺聖徳太子の造られたものではなく再建されたものであることは自明のこととなったが、再建法隆寺の金堂の建築部材が元法隆寺消失以前のものであることから、ある時期二つの法隆寺(現法隆寺は金堂のみ)が併存したのではないかという推論である。現法隆寺に二つの本尊(釈迦如来薬師如来)が並び立つのも元法隆寺の本尊(薬師如来)が消失前に移されたからで、元法隆寺は意図的に燃やされたのではないか。誰がなぜそのようなことをしたか。このあたりはもちろん推論にはちがいないが山背大兄皇子一族を死に追いやった時の為政者であろう。

 先週たまたまNHKのBS「国宝へようこそ」で法隆寺を見直す機会があった。血なまぐさい歴史をもちながら1300年を経てもなお美しい姿であった。

 

 

 

 

          相談し黙るときあり蝉時雨

 

 

 

 

法隆寺の謎を解く (ちくま新書)

法隆寺の謎を解く (ちくま新書)

 

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長梅雨

玄侑宗久の生きる力』  玄侑 宗久著

 久しぶりの玄侑さんの本である。いつもながら玄侑さんの本を読んでいると、学ぶことがいろいろあってついノートを取り出して書き写すことになる。

 玄侑さんはとらわれてはいけないとおっしゃる。こうあらねばという物語を作って窮屈に生きてはつまらない、何が起こっても過去にとらわれず、未来を恐れず今の今を「無心」に生きよとおっしゃる。状況に「ゆらぎ」、「なりゆき」にまかせて生きるのが「風流」だとおっしゃる。

 いつもいつも「ふむふむ」と納得したつもりでちっとも変わらない私。降り続く長雨や拡がるコロナ禍、不十分な体調にイライラはつのるばかり。

 「物事を頭で分かったつもりになることをやめる。」

 「変わりたければ・・・何か新しいことを一つ始めて、それに三昧になって習慣化すればいい」

 「習慣化するという意味で、私がお勧めするのは丸暗記だ。」

 斯くしてお経を覚えようと思ったのだがなかなか。決心が頓挫するのが早いか覚えられるか。また何を始めたかと家人は呆れ顔。

 

 

 

 

       長梅雨や無心ならむと刃物研ぐ

 

 

 

 

 

夕立

サザエさん長谷川町子』 工藤 美代子著

 図書館の新刊コーナーでこの本を手にしたのは『人間晩年図鑑』が頭にあったせいだ。町子さんが取り上げられていて、サザエさんのほのぼのイメージとは真逆な晩年だったなあと思ったからだが、それでの野次馬的興味がなかったかといえば嘘になる。

 サザエさんといえば庶民派の代表のような家庭に思えるのだが、どうしてどうして桁ちがいな億万長者であったというのが驚きのまず第一である。その莫大な財産がゴットマザーというべき母親(父親は早世された)を頂点とする姉妹三人の個人出版社から生み出されたというのが第二の驚き。(この辺りの話はテレビドラマにもなったらしい)第三の驚きはその家族的結束が晩年に至って崩壊してしまい、今や莫大な遺産は赤の他人が管理するに至ったという事実である。この他にも別荘や自宅の火事、訴訟事件、町子さんの癌、町子さんの遺骨の盗難と脅迫などいろいろあったようで有名税とはいえ多難であったようだ。サザエさんがの平穏な家庭的雰囲気が強いだけに意外と言えば意外な人生であった。

 朝日新聞サザエさんの漫画が掲載されていたのは昭和24年の暮れからだというから、子どもの頃からずっと親しんできたわけだ。時々長期休載があってがっかりした思い出もある。そのサザエさんの裏にこんなドラマがあったとは、人の一生はわからないものだ。

 

 昨日一昨日と午後は激しい雷雨。隣県もうちの県も急激にコロナの感染者が増加。知事は第2波だと表明。ちょっと自由が出てきたのにまた逆戻りだろうか。

 

 

 

 

        ぽつりひや後は一気に夕立かな

 

 

 

 

サザエさんと長谷川町子 (幻冬舎新書)

サザエさんと長谷川町子 (幻冬舎新書)

 

 

うすもの

『エリザベスの友達』 村田 喜代子著

 「認知症」にはなりたくないな。自分が自分でなくなるような恐ろしさがある。我質の強い人間だから抑制がなくなったらどんなことになるだろうとも案じる。頭を使えばいいかというと、そうでもないらしい。認知症研究の第一人者でもなったりするのだから、予防といってもどうしたらいいのかわからない。その点では癌と同じだ。

 だけど、確か先週の新聞で読んだ気がするのだが、認知症はなってしまえば思うほど不幸なものではないという記事があった。誰の意見だったか忘れたが、何よりも「死」の恐怖から解放されるというのだ。この本にも癌になった認知症の老女の話がでてくるが、全く苦痛がないという。そこの件を引くと、

「こちらの施設で伺っても、ガンのお年寄りで、先生を呼んでモルヒネを処方して戴いたりするお年寄りは一人もいなかったとか。苦痛がないんだそうです。」

とあり、「認知症は喜びも感じないけど、心と体の苦痛の方も認知できにくくなるのでしょうか。」と登場人物に言わせている。

 さて、本の方だが、三人の認知症の老女の話でる。 三人とも戦争の苦労をくぐり抜け生きてきた世代だ。新しい記憶は抜け落ちて妄想の中でいつも帰っていくのは若かった日々。苦労もあったが甘美な想いもあった。なによりそこでは若くて元気だった。終日うつらうつらしながら夢を見続ける。時々何かに怯えることはあっても不安も淋しさもない。

 読んでいて姉のことを思い出した。こちらの病気とコロナ禍もありもう半年以上は会ってないがまさにこの老女らと同じ世代だ。若い頃運動ができて美貌にも自信のあった姉は「私は陸上選手なの、競争する?」と暗にどんくさい妹とは違うということを周りに仄めかしていたし、まだ電話の出来る頃には「また恋をしようかしらん」とも言ってた。認知症初期の取り乱した日常がうそのようなおおらかさというか、平穏というか、そうであったなあと思い出す。

 村田さんは去年読んだ『飛族』について二冊目である。池内さんがご贔屓だったから読んでみようと手にしたのだが、まあまあ読まされた。

 

 明日は当方の「認知症検査」である。結局免許返納になるかもしれぬが、とりあえず検査だけは受けておくことにした。

 久しぶりのお日様でほっとする。先程まで蝉が賑やかだった。

 

 

 

 

         棋聖うすものをきて清々し

 

 

 

 

エリザベスの友達

エリザベスの友達

 

荒梅雨

『名画読本 日本画編』 赤瀬川 原平著

 ちょっと前NHKの「日曜美術館」で「蔵出し日本画十五選」というのをやっていた。(このところはその世界編である)BS日テレの「ぶらぶら美術館」でも山下さんの「死ぬまでに見ておきたい日本画十選」というのもあり、同じような企画だなあと思う。恐らくコロナで新しい収録が出来ずそういうことになったのだろう。そんなこんなで日本画を通して鑑賞する機会があったのでTの書棚からこの本を拝借してくる。

 テレビの企画ではNHKは古代の装飾古墳から始まり、日テレは平安末期の絵巻物からだった。両者に共通して選ばれていたのは等伯雪舟若冲であり、等伯雪舟は赤瀬川さんのこの本にも登場する。このあたりが日本画の歴史としては最高峰ということだろうか。

 等伯はやはり「松林図屏風」で山下さんは「大気を捉えた」作品だと褒め、赤瀬川さんも「霧のリアリズム」だと感心する。早書きとも思えるような筆のタッチで一気に描き上げているところもすごい。この絵の他にも「枯木猿猴図」を取り上げて、その筆遣いを「時代を超える気迫のアヴァンギャルド」とも評している。

 雪舟三者とも対象にした作品が違い、赤瀬川さんは「慧可断臂図」を取り上げている。感心の中心は達磨の身を包む白衣である。「ぬっとした生温かい体温がありながら清潔である。」と言われて、見直してみると、なるほどと思う。この絵も「松林図」同様実物を鑑賞したのだが、そこまでは気づかなかった。

 赤瀬川さんは、西洋画は「見たとおりにそっくりに、こと細かに描き上げる」というのが主流だったのに対して、日本画は「見たとおりというよりは、見て感じているとおりに描く」。「具体的には陰影の違い」で、陰影のない日本画は特定な時間でない、いわば「心に感じ続けている」ものの本質を描いているのだと言う。そう思えば光琳の「紅白梅図屏風」のようなあんなにデフォルメされた梅の木も小川も納得できる。

 さて、昨夜はTVで西洋編を見たが気味の悪い作品が多くてちょっと閉口であった。

 

 外科の主治医の診察を受ける。詳しくはMRIの検査をしてみないとわからないが、癌の骨転移には否定的であった。放射線で脆くなった骨が何かの衝撃で損傷したのではないか、ということである。実際に一時退院のとき酷い尻もちをついたことがある。そうだとしたらお笑いぐさだがありがたい。

 

 

 

 

         神の杉根こそぎ倒し梅雨荒らし

 

 

 

 

 

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この大杉が今回の大雨で倒れました。樹齢1300年だそうです。中山道大湫(おおくて)宿の神社。

 

名画読本 日本画編 (知恵の森文庫)

名画読本 日本画編 (知恵の森文庫)

梅雨出水

『妻と私』  江藤 淳著

 関川さんの本を読んで以来、気になっていた江藤さんの本をTの書棚で見つける。巻末に追悼文も付け加えられており、多分これが関川さんの原稿の種本ではないかと思わされる.

 吉本さんが追悼文で「大へん感動した。しかしこの感動はたくさんの人にすすめて読者として分け合いたいというものではな」いと書かれている。他人の生死を話題にすることで野次馬的性質を帯びてしまうことを恐れられたということだ。吉本さんらしい人間的深慮だと感心しながら、その顰みに倣って私も中身には触れないが一気に読まされた話ではあった。

 結局江藤夫人は自分の正確な病状も病名も何も知られないままで亡くなったのであるが、知らない振りをしている当人も秘密にしている端の者も却って苦しかったのではないだろうか。最近は癌でも告知が前提だから以前とは随分違ってきた。まあ癌といっても完治の可能性が高くなったせいもあるだろう。私の場合も最初の病院では、ポリープかもしれないので大きな病院で診察を受けるように言われたが、今の病院でははっきりと病名を告げられた。

 さて昨日は形成外科の外来に出かけた。手術や入院についての説明を覚悟して行ったのだが思わぬ展開となった。手術にむけてのCTの検査で尾てい骨に異常が見つかったのだ。原因はわからないが尾てい骨の一部が溶けているので更に精密検査(MRI)が必要になった。したがって形成での治療は一時中断である。最悪の場合は骨への転移かもしれないが、仕方がない。本人より家族ががっくりきている。

 

 人吉市の水害が報じられている。八年前に訪れているが谷あいに開けたこじんまりしたいい町だった。レンタル自転車で廻ったから印象に残っている。あの町が泥水で埋まったのかと思うと本当に痛ましい。

 

 

 

 

        ロビーより川面見し宿梅雨出水

 

 

 

 

妻と私・幼年時代 (文春文庫)

妻と私・幼年時代 (文春文庫)

  • 作者:江藤 淳
  • 発売日: 2001/07/10
  • メディア: 文庫

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 散歩で出会った子

草刈

『無私の感触』 岡松 和夫著

 オカタケさんのブログで知るまで、全く未知の作家であった。それほど古い本とは思われないのだが図書館では閉架に収納されていた。芥川賞新田次郎賞・木山捷平賞の受賞歴もある。この本もいい話だった。何よりも読後感が爽やかだ。

 敗戦間もない頃の一学生青柳志郎の話。巷はまだまだ戦禍の跡も生々しく学生の中には父母を戦争で失った者も多い。米軍の占領下であり、朝鮮戦争が起こり日本で物品の補充や兵器の修理がおこなわれている。大学の自治会ではそういうことに反対のビラを撒き、「占領目的阻害行為」で逮捕される者もでてくる。志郎もビラ撒きを手伝ったりする一人だが、メーデーで死者が出るに及んで考えに変化が出てくる。

「自分のような神経の脆弱な者が加わってゆく世界ではない」

とも思い、暫く大学を休んだりもする。だが

「文学者や哲学者は人を殺すことに加担しない。そういう根本原理を研究するために文学部はある。」

 先輩のそういう言葉に励まされ勉学を続けるが、在学中の自治会活動が障害になり就職はうまくいかなかった。他の学科に再入学をした彼は、教師を目指しながら小説を書き始める。そして、初めての小説を読んでもらった知り合いのつてで女学校の講師になるところで、この話は終わる。

 九の小編からなる志郎の成長物語だが、どの章にも実に気持ちのいい善意の人が出てくる。悪辣な人間は一人もいない。誰もが深い戦争の傷を身の内に抱きながらも前向きである。志郎はそういう人達に感化されながら真っ正直に生きていこうとする。

 何だろう。こういう美しい人間関係は時代のせいなんだろうか。それとも筆者自身の資質のせいなのか。ともかく気持ちのいい爽やかな読後感であった。

 

 

 

 

      草刈や尻に付きたる椋鳥(むく)の群れ

 

                     まるで「笛吹の鼠男」みたい

 

 

 

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フウラン

 

無私の感触

無私の感触