落葉掻き

 今朝の我が家の寒暖計の最低気温は4.5度。霜も初氷もまだだがさすがに寒くなってきた。いつ霜が降りてもいいようにこの二・三日でしっかり庭の冬支度はしたのでそれは安心。といってもたいしたことではないが寒さに弱いものは室内に取り込んだり軒下に入れたりフレームを掛けたりした程度だ。

 一昨日は二人の部屋の障子も張り替えた。今年は張りきって都合八枚の障子を張り替えたことになる。

 後は窓拭きと庭の落ち葉を片付ければいつお正月さまがきてもいいというところか、いい加減なものである。

 そうそう年賀状だが今年は何人かには最後の賀状にしようと思う。「年賀状の卒業」というらしいが、形式だけになっているぶんにはそれもいいかなと思うのだ。幸い卒業お詫びの文面がいろいろあるようだから参考にさせてもらおう。

 

 

 

 

          穏やかな日和となりぬ落葉掻き

 

 

 

 

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       芙蓉の実枯れてはなやぐことありぬ    安住 敦

涸川

『日本浄土』 藤原 新也著

 紀行文が好きである。図書館の棚に一冊だけ表紙を表向けにして飾られていたから借りてくる。

 「今日、佳景に出会うことは大海に針をひろうがごとくますます至難になりつつあるのだ。」という筆者。それでも「うしなわれつつある風景の中に息をひそめるように呼吸している微細な命」を求めて旅した記録である。

 島原・天草・門司・柳井・尾道と記憶と共に巡る土地土地。土地にまつわる幼い日の記憶や若き日のときめきを思い出しながら今は亡き人々に思いを馳せる。しみじみとした旅情である。

 写真家であるだけに挿入された何枚かも味わい深い。

 

 夫が畑に入れるための堆肥づくりを熱心にしだしたのは一昨年頃からである。抜き取った草や枯れ葉の始末に始めたことだが、耕作にもなかなかいいことがわかって最近はかなり積極的にやっていた。今年も庭の枯れ葉が大量に出る季節になって、堆肥の山に枯れ葉投入の穴を掘っていたらカブトムシの幼虫がいっぱい出てきた。「自然の幼虫を見るなんていつ以来だろう」「まだいるんだ」とびっくり。何匹かはクヌギのチップで育てるようだが何匹かは元の山に埋め戻してやったようだ。というより自分で潜って行ったらしい。幼虫は苦手だけど無事に成虫になってほしい。もさもさと木が茂り昔ながらの我が家だが、虫や鳥にとってはそれなりにいいところであるらしい。

 

 

 

 

          涸川や孤高を守り鳥の立つ

 

 

 

 

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日本浄土

日本浄土

 

山茶花

 そうまでするか

 いつもこの欄にコメントをお寄せくださるふきのとうさんに習って「そうまでするか」をいたしました。気にいっていた古シャツをカットして、使い残りの紺の木綿地と合わせて胸当てエプロンにしてみました。

ジョキジョキ切ったら捨て切れなかったシャツにも引導を渡すことができました。なんてことはないのですが自分では案外いい気分です。着なくなったものは処分しようと思ってもなかなか捨てられない私です。そのくせ新しいものを買ったりするから困ったものです。

 

 

 

 

         山茶花の紅のこぼるる通ひ道

 

 

 

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暮早し

空爆下のユーゴスラビア』 ペーター・ハントケ著 元吉 瑞枝訳

 今年のノーベル文学賞の受賞者はペーター・ハントケであるが、彼の受賞については様々に反発する声があると池澤夏樹さんが書いている。(「朝日新聞」11月6日朝刊)

 NATOによるユーゴの空爆は今では間違いではなかったかという考え方もでてきてはいるらしいが当時(1999年)西側では悪いのはセルビアだという考え方一辺倒であったらしい。ハントケはそういう中でセルビア叩きに異議を唱えた少数者であったからだ。

 この本は、彼が空爆下のユーゴスラビアを訪れて、かの地の人々が極度の不安の下でそれでも民族的団結を鼓舞しながらやっと暮らしている状況のリアルな報告書である。そしてまた西側のメディアが流す一面的な報道内容を厳しく批判する書でもある。

 コソボ紛争についてはよく知らないが、最近ベオグラード在住の山崎佳代子さんの本を二冊読んだので当時のセルビアの人々の辛さは少しはわかったつもりだ。「民族浄化」などというのも一方的にセルビアに貼られるレッテルでなくアルバニア系にもムスリム系にもクロアチア系にもあったということを人々の証言から読み取ることも出来た。

 NATO のとった方法は、自らは危険地帯に身をおかずに爆弾とミサイルで糾弾するいつもながらの酷いやり方だが、「誤爆」もいつもながらついてまわる悲劇だ。この時の空爆でも病院や市場や避難民が誤爆された。

 さてハントケが受賞するというのは当時の西側のプロパガンダの間違いを認めたと言うことなのかどうなのか。それにしてもノーベル賞受賞にもかかわらず日本でもハントケについては多く語られていないようだ。この本も県の図書館の書庫の中に埋もれていた。

 

 

 

 

           炎鵬を見て夕支度暮早し

 

 

 

 

空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける (『新しいドイツの文学』シリーズ)

空爆下のユーゴスラビアで―涙の下から問いかける (『新しいドイツの文学』シリーズ)

 

 

黄落

名古屋市博物館へ

  Yから連絡があり、下の孫のお習字が展示されているというので名古屋市博物館に出かける。三つ上の兄もやはり展示されたので兄に負けずと張り切って書いたものらしい。兄だけ見て弟のは見ないわけには行かまいとはるばる出かけたわけだが平日の昼間ゆえ同じような思惑のご老人が多かった。

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 博物間ではちょうど「発掘された日本列島2019」が開かれており、そちらも堪能した。特に興味深かったのは「白神山地東麓縄文遺跡群」からの発掘品で顔面付き土器や漆塗り土器、遮光器土偶やら合掌土偶、土製の耳飾りなどである。

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かなり細かな細工を施した耳飾りだがどんなふうに身に付けたのであろうか。

 縄文の発掘品が一番面白かったが、古墳時代出土の大型埴輪ももちろんあった。

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 かなり修復されてはいるがずいぶんと気品のある馬の埴輪である。

 例年巡回展が近くにくれば見にゆくようにしているが今年は出土品が少なかったような気がした。この後Y宅にちょっと寄りその後帰宅したのだが、車で走った名古屋の街もすっかり紅葉してまさに晩秋の風情。

 

 

 

 

       黄落や見慣れし街の劇場化

 

小六月

『煤の中のマリア』 石牟礼 道子著

 水俣病患者の支援活動を通して、石牟礼さんは人間性のなかの聖性ということに惹かれるようになったという。救いのない殉教に身を投じた島原の乱の人々について綴ろうと取材を重ねた道行きが第一章「草の道ー島原の乱紀行」である。

 天草四郎を頼みとして原城に立てこもったのは老幼婦女子を交えた百姓漁師、三ヶ月の善戦も虚しくことごとく惨殺されたという。その殲滅は容赦なかったようで今に至るまで遺跡らしいものはなにも残っていないのだという。

 そんな状況のなかで石牟礼さんは今に変わらぬ潮の流れを訊ねたり、乱後の疲弊し尽くした人心や土地を復興すべく努めた鈴木重成という代官について聞き歩く。

 鈴木重成という人はこの本で初めて知ったのだが、元は征討方の松平伊豆守の家臣であった。よほどの人格力量があったらしく復興のための総責任者を任せられ、兄の禅僧鈴木正三の力も借りて立派にその務めを果たしたらしい。それも生半可な行為ではなく、晩年には天草の民を憂い自ら石高半減の上訴をして割腹して果てたというのである。天草には今もこの鈴木代官の遺徳を偲んで鈴木神社があり、村々には手作りの小さな祠まであるという。

 「島原の乱」というものは教科書で習ったぐらいで、なぜ多くの人々(三万前後という)が望みのない戦いに身を投じたのか、宗教心をというのはそれほど甘美で魅力的なものであったのか、わからないことばかりだ。ここは石牟礼さんの『アニマの鳥』を読んでみるしかないのかとも思う。

 第二章は人吉・椎葉紀行、第三章は不知火追憶である。どこもここもコンクリートで固められ精神の荒廃も甚だしいこの国の行く末に、筆者の嘆きは深い。

 

 

 先々週三ヶ月ごとの経過検査を受けた。前回までやや怪しかったところに再発の可能性ありと告げられる。来週さらに精密な検査となり、ちょっと落胆はしたが悪ければ取るしかないと割合前向きに考えている。「食洗機」が付いたので「入院しても後片付けは楽になったね」と笑い合う。

 

 

 

 

       父と子のサイクリングロード小六月

 

 

 

 

冬に入る

『市場界隈』 橋本 倫史著

 沖縄の旅の最終章、那覇空港の本屋さんで購入した。那覇市第一牧志公設市場界隈の人々に取材して紹介した本である。

「1950年に牧志公設市場が開設された。現在の建物は1972年に建設されたものだが、老朽化が進み、2019年に建て替え工事が行われることになったのだ。」

1972年とはまさに沖縄が日本に返還された年。そして2019年はまさに今年。この間の沖縄の歴史を聞いておかねば「現在の風景は過去のものになってしまう。」筆者の突き動かされるような思いがこの市場界隈の人々のつい昨日までの肉声を伝えてくれている。

 それにしてもここに登場する人々のなんとエネルギッシュなことか。皆さん当方と同年代にもかかわらず終日店に立ち、まだまだ意気盛んなのである。残念なことに本を手にしたのが旅の後であったからお店で顔を拝見することはなかったけれど撮ってきた写真にはしっかりと屋号などが写っていたりするので、新規になった仮設市場の方で相変わらず奮闘されていることだろう。

 今年の6月16日で営業を終えた旧第一牧志は写真のとおりガランとした寂しさでそれゆえに老朽化もかなり目立つ。新しい市場は2022年春に完成するというが、どんな市場になるのか。おそらく戦後の闇市から始まったと言われる混沌とした市場界隈がスマートに変身するのは間違いないだろうと思う。

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       行く夜汽車窓ながながと冬に入る

 

 

 

 

市場界隈 那覇市第一牧志市場界隈の人々

市場界隈 那覇市第一牧志市場界隈の人々