年酒

 

『誕生日の子どもたち』  トルーマン・カポーティ著  村上 春樹訳

 あけましておめでとうございます。今年もよろしくお願いします。

 毎年のことだが三が日もあっという間に過ぎる。迎春準備し、来客を迎え、以前のように身体が動いたことに感謝せねばと思うようになった。年賀状を読んで何年ぶりかに電話をくれた昔の同僚とも二月になったら会う約束でき、それはそれでひとつの楽しみだ。

 さて、年末年始で読んだ本はカポーティの短篇集『誕生日の子どもたち』。あとがきで訳者の村上さんが、この短篇集は無垢な子どもたちがテーマだというようなことを書いておられるが、全篇子供が主人公の話だ。中でも三篇はカポーティ自身の自伝的思い出ということらしい。どれも良かったが『感謝祭の客』は特に良かった。詳しくは触れないがカポーティと思われる少年をいつもいじめていた貧しいゆえ粗暴な少年オッドがピュアな心の持ち主の老女ミス・スックの思いやりで心を開く話である。

 角野さんが選んでおられた『おじいさんの思い出』も悲しいがいい話だ。若い夫婦が子どもの教育の環境やら豊かな暮らしを求めて田舎を捨てる話。老人は残され淋しく人生を終えるというのは今のこの国の現実とも重なる。年末の新聞の特集で、都市部への一極集中を続ける限り日本の未来はないとAIは判断したそうだが、都市への人口流入は止みそうはないと思う。

 テレビは相変わらずくだらないし新聞は悲観的だし正月そうそう明るい気持ちにもなれないと思うトシヨリの新年です。

 

 

 

 

     生かされてしみじみ旨き年の酒

 

 

 

 

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 初詣の道すがらの風景。鶴ならぬ白鷺。

 

誕生日の子どもたち (文春文庫)

誕生日の子どもたち (文春文庫)

 

 

 

年の暮

 ついに雪が降った。初雪は昨日未明らしいが、ほんのちらついた程度であり実質的には今日が初雪だ。報道では岐阜市は7センチと言ってたが、我が家では5センチぐらいかしらん。

 昨日本家から正月用の花を貰ったので花を活け墓参りもしようと思っていたのだが予定変更。雪を見ながら豆を煮る。豆の煮える香りというのはいいものでなんとなく迎春気分が満ちてくる。

 今日の新聞の読書欄は恒例の「書評委員の選ぶ3点」というものだったが既読書は1冊しかなかった。それも途中で放り出した『ハレルヤ』だったのでがっくり。

 今年の既読書は73冊で去年と比べると20冊ほど少ない。中身の質もあるから一概に数だけで比べられないが今年は大病もしたからしかたがないところか。私の3点は『流れる星は生きている』と『たそがれてゆく子さん』と『狂うひと』かなと思う。

 年の瀬から正月の間何を読むか考えていたら、やはり読書欄に出ていた角野栄子さんが気に入った1冊にカポーティの『おじいさんの思い出』を上げておられたので、またTの本棚からカポーティ『誕生日の子どもたち』を拝借してきた。迎春準備やら来客やらでさてさてどれほど読めましょうか。

 いつも拙い繰り言を書いておりますが、お読みいただいたり励ましのお言葉をいただいたりとトシヨリの生きがいになっております。来る年もよろしくお願いいたします。よいお年をお迎えください。

 

 

 

 

     二階まで豆煮る匂ひ年の暮

 

 

 

 

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数え日

『冬の鷹』  吉村 昭著

 関川夏央さんの『昭和時代回想』を拾い読みしていたら「評伝もまた小説たらざるを得ない」という小節で、この本が紹介されていた。「小説と銘打ってはいるが、これほど事実に執着する姿勢をみせた作品はまれだ」というくだりでである。興味を覚えたのでTの本棚から抜き出して読み始めたのだが、初めて知る事実も多くてかなり興味深く面白く読んだ。

 さて、この本はかの有名な『解体新書』の訳者 前野良沢の生涯を描いたものである。

 これによれば『解体新書』の訳出という難事業がほとんど良沢ひとりの苦労でなったこと、更に出版に際して良沢の名が記されなかったことなど、意外といえば意外な事実の紹介である。

 教科書などでは杉田玄白前野良沢の共同訳のように習ってきたのだが、当時オランダ語の知識のあるのは良沢ひとりであり、当然ながら良沢が訳したのを玄白が整理するということであったらしい。ただ出版に際しては玄白の活躍が著しく、反対に良沢は不完全なものを世に出すためらいで訳者として名前を出すことも固辞して、世間での名声は対象的なものになったようだ。

  しかし、良沢は終生学究的な姿勢を貫き訳出は医学書だけでなく宇宙論書や地理書にも及び、ニュートンの学説も紹介すれば、アメリカ大陸の発見にも触れ、カムチャッカ半島の地勢についても読み取り、今日から見れば信じがたいほどのことであった。

 江戸も中期の頃の話であり玄白の華々しさとは違い知る人だけが知るという生涯だったようだが、良沢の生き方には惹かれるものがある。「神経」やら「軟骨」という良沢の苦心の訳出から生み出された用語が今でも立派に使われているというのは、報われたようで他人事ながら嬉しい。

 事実に執着していると言わしめただけにこの本では同時代人の平賀源内や高山彦九郎などについてもかなり触れられており、良沢は源内には批判的であり彦九郎には同情的であるように思った。

 

 

 

 

          数え日や待合室の混み合へり

 

 

 

 

冬の鷹 (新潮文庫)

冬の鷹 (新潮文庫)

 

柚子湯

 帯状疱疹の神経痛が長引いて頻繁に医者通いで気が滅入る。昨日も病院の会計窓口に並んでいたら(昨日は放射線科の先生の診察)列の後ろで爺さんたちが大声で放談するのが聞こえた。久しぶりに病院に来たら人が多いのに驚いたという話から始まって、老人が長生きしすぎるとか、昔なら寿命としたのにいまではなんでも治そうとするとか、これでは医療制度も立ち行かなるはずとか、喧しい。そういうご自分はどうですかと言いたくなったが、もちろん黙っていた。若い頃は医療制度の恩恵なんぞほとんど必要としなかったのだが今は最初に書いたとおりである。なんと言われようとしかたがない。調子が悪ければ通うしかないのである。

 

 宇多喜代子「戦後生まれの俳人たち」を読んでいる。戦後生まれといってもこちらもそうなのだから若いとは限らない。70歳代から一番若い人で30代まで、大半はすでに老人の域に近づいた人ばかりである。各自の自薦10句を宇多さんが鑑賞、批評しているのだがその視点が勉強になる。もちろん宇多さんの物差しはかなり広いのだがそれでもあまりにも前衛的(?)なのは認めないのだとホッとする。とにかく100人以上を取り上げておられるのでぼちぼちである。

 

 

 

 

         柚子湯して獅子身中の虫宥む

 

 

 

 

戦後生まれの俳人たち

戦後生まれの俳人たち

 

しぐれ

『山の神』 吉野 裕子著

 興味深い話であったがなかなか難しい本でもあった。

 「蛇と猪、なぜ山の神はふたつの異なる神格を持つのか」うっかりしていたがヤマトタケルノミコトを死に至らしめた伊吹山の神は、古事記では「白猪」であり日本書紀では「大蛇 オロチ」であるという記述の違い、筆者の話はまずそこから始まる。簡単に言えば「山の神」は「蛇」というのが日本古来の原始信仰であるらしい。神奈備山のきれいな円錐型には蛇のトグロを巻いたかたちを重ねあわせ、隆々とうねる山並みは大蛇を想起し、原始日本人にとって祖霊こもる山は即ち蛇でありそれは深い信仰対象であった。縄文人は土器や土偶に蛇を型取りその霊力を敬った。蛇の古語を「カカ」というらしいが「カカの身」が「カミ」に転化したのではとも考えられるらしい。蛇を信仰対象とした様々な話はあるがスサノヲノミコトのヤマタノオロチ伝説やヤマトトトヒモモソヒメの箸墓伝説は有名だ。

 一方猪を山の神とする信仰はどこから出てきたのか。吉野さんはこれを中国伝来の易・五行の理に求める。易・五行は吉野さんの得意とされるところで説明は詳しいが、こちらの頭ではちっともわからぬ。要は易の八卦で「山」を示す方位が十二支の「亥」に相当するということだ。またこの「亥」が消長の卦というものによれば「妻」であることも示すので、それから古女房などを「山の神」と称することも出てきたし、その繋がりなのか「山の神」が女性神だという言い伝えも多い。信仰的にはこちらのほうが新しいようで農耕神と結びついて各地で祀られているのはこちらのようだ。

 さて、うちの田舎でも「山の子」という祭礼は続いている。このあたりは「山の子」といっているがもとは「山の講」からの転化である。昔は男の子だけの行事であったから詳しいことはしらぬが、「山の神」と共食してから松明を掲げて田んぼから山まで練り歩いていたようだ。多分「田の神」の山送りだったような気がするが、詳しいことはわからない。「山の子」のはやし歌のようなものもあって伝え聞いたその歌詞も少しだけ覚えている。もちろん今は集落の代表がお供えをするだけであるが、いつも冬の行事だったからこれは「亥」に関係する「山の神」の行事である。

 

 二ヶ月ぶりの病院検査に行ってきた。幸いにも再発の兆候はなく今回も無事クリア、ひと安心で年越しができる。

 

 

 

 

     しぐるるや阿弥陀被りの陶狸

 

 

 

 

山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)

山の神 易・五行と日本の原始蛇信仰 (講談社学術文庫)

 

 

 

日短

『それゆけ、ジーヴス』  P・Gウッドハウス著   森村たまき

 皇后さまがお誕生日会見で触れられていたので、興味を覚えて借りてきた。まだ読了してはいないが読み通せるか自信がない。つまり内容はユーモア小説ともいうようなもので、あまり趣味ではないからだ。あちらではシリーズものとして人気もあるようだが、こういうのがイギリス的ユーモアということかしらん。

 

 うちの甘夏も随分色づいてきたのでいつもの「マーマレードづくり」を試した。まだ早いかなと思ったが充分美味しくできた。毎朝パンを食べるのは私だけなので当分は持ちそうだ。柚子ジャムも作ろうと思ったが、柚子ぶろに浮かべるのを残すといくらも残らないので皮を刻んで冷凍にした。時々に煮物に散らせばいい香りだ。いよいよ今年も押し迫ってきて何かと落ち着かない。

 

 

 

 

             夕餉待つ児を思いやる日短

 

 

 

 

 

それゆけ、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

それゆけ、ジーヴス (ウッドハウス・コレクション)

 

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聖樹

『83 1/4歳の素晴らしき日々』  ヘンドリック・フルーン著

 ヘンドリックの残りの一年間を追体験した。オマニドクラブを立ち上げたヘンドリックたちは半月に一度のエクスカーションを企画し、映画会や動物園訪問・料理や絵画のワークショップなど楽しい時間を共有する。ヘンドリック自身も赤い電動カートを手に入れ自由な遠出も楽しんだりもした。

 しかし、老いの進行は容赦のないものだった。オマニドクラブの八人にも辛い現実が襲った。エヴァートは糖尿病の悪化で片膝下の切断を余儀なくされたし、フリーチェは認知症の症状が出てきた。そしてヘンドリクが半世紀前に出会いたかったと思いを寄せた貴婦人エーフェは脳卒中で帰らぬ人になってしまった。

 悲しみにくれながらもヘンドリックは新しい年に期待を繋ぐ。

計画があるかぎり、人生は終わらない。午後に来年の予定表を買いにいこう。それから新しい日記帳も。

 楽しい老後とはどんなものか、どう考えればいいのか。ヘンドリックの年齢までまだ十年はあるが、ひとつの示唆を与えてくれる一冊であった。

ところで、この本には「安楽死」の話がよく出てくる。何でもオランダは「安楽死」が合法化されている国らしいが、望めば簡単にできるというものではないらしい。家庭医とよく話合った上で医者も同意したらとのことで、ヘンドリックもそれとなく家庭医に話を切り出していたが、まだまともに相手にされてなかったようだ。

 

Yからメールで今度の正月は久しぶりで一泊すると連絡があった。こちらの体調が思わしくなく孫たちも大きくなって日帰りばかりだったので泊まりは久しぶりだ。H殿が喜んで手伝ってくれるというので期待している。みんなに甘えて楽しい新年会ができればいいと思っている。

 

 

 

 

        玻璃ごしの聖樹の滲む夜の雨

 

 

 

 

83 1/4歳の素晴らしき日々 (単行本)

83 1/4歳の素晴らしき日々 (単行本)