梅雨出水

「日本文化の形成」 宮本 常一著

 図書館の歴史コーナーに隠れるようにあった一冊。宮本さんの遺作だという。大雑把に要約すれば、長い縄文文化の上に稲作とともに弥生式文化が入りさらに古墳文化ともいうべき大陸の文化が流入して、大量の渡来人をも受け入れ渾然と融合したのが日本文化だという話である。そう言ってしまえば目新しいものではないがおやっと思ったのは、「律令国家を形成していく主動力になる者は、どうやら縄文文化人たちの後裔でもなければ、稲作をもたらした者でもないようである。」という一節。そして、この統一国家を形成した者たちを彼は「半島倭人」ではないかと言うのだ。「半島倭人」というのは九州地方と朝鮮半島南部の両方に軸足を置いた「倭」と呼ばれる人々で「倭」と「邪馬台国」は区別して見ていくべきだというのが宮本さんの考えだ。いずれにしても、かつて日本人は単一民族などと言った政治家がいたが、とんでもない。混血に混血を重ねて続いてきたのが今の日本人だというのは間違いない。

 佐原真さんが縄文系弥生系という言葉を使って現代人に残るそれぞれの痕跡を説明されていたのを読んだことがある。それによれば自己判断の視点として五つの要素が挙げられていた。目(二重か一重か)耳垢(ネバネバかさらさらか)顔形(四角ばってるかうりざねか)顔の凹凸(ほりが深いかのっぺりか)眉(濃いか薄いか)の五点(前の要素が縄文系)である。当方の場合は大体半々でどちらともいえない。混血の果てに行き着いた姿である。

今少し勉強したいなと思うのはもともとこの国に住んでいた人々のこと。本来の縄文人、「土蜘蛛」と言われ、「エビス」と言われ「蝦夷」と言われた人たちのこと。

 

 昨日は終日かなりの蒸し暑さ。午後は酷い雷雨で市内でも浸水のところが出たという。隣の市の犬山市では国宝犬山城の鯱に落雷だあったようだ。梅雨が上がれば上がったで猛暑になるのだろうが、早く上がってほしいものだ。

 母親のボケ防止のためになら協力を惜しまないTの援助で、どうにかブログ移行。いままでと違って「広告あり」なのはお許しください。Tによれば見られる方で広告ブロックの方法があるようだが当方には説明できません。

 

 

 

 

     水脈ひいて上るものあり梅雨出水

 

 

 

 

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日本文化の形成 (講談社学術文庫)

日傘

 「はてなダイアリー」のサービスが変更されるということで、ブログの移動を検討している。近日中に行いたいと思うのでその節はよろしくお願いします。前の画面が気にいっているのでとても残念だがしかたがない。
 
 夏野菜の収穫の最盛期。今年はうまくいってトマトなどもご覧のとおり。なかなか家庭内だけでは消費しきれないほどで、人にあげればまた違った野菜が返ってきたり。ゴーヤも採れだしたので今朝から甘酒に加えてゴーヤジュースも。




     寄り添うて日傘ひとつに夫婦かな






日の盛り

「火花」 又吉 直樹著
 重版に重版を繰り返した話題作である。今さら何かを語るまでもあるまい。舞台はお笑い芸人の世界だが誰もが思い当たるような青春の友情・挫折物語だ。又吉さんを彷彿とさせる語り手の徳永は、はからずも青春期を離陸した。仮に又吉さんだとすれば、それも見事な飛翔だ。一方、神谷はどうしただろうか。「理想が高く、己に課しているのも大きかった」「周囲に媚びることも出来ない」と徳永に言わしめた神谷。才に溺れた彼が行きついた果ての奇行の哀れさ。彼は「本物の阿呆か、自分を真っ当であると信じている阿呆か」どちらであろうか。いずれにしろ青春期の熱病にいつまでも取り憑かれているのは「阿呆」であろう。私達の時代にもそういう「阿呆」はいたからこの話は痛々しく心に沁みた。




     幸薄き人を送りし日の盛り



 何年か前、暑い盛りに逝った人を思う。いつも世話になった美容師さんだった。不幸な生い立ちで、長じてからは道ならぬ恋で一人息子を授かったが、三十代の若さで癌に負けた。この句は彼女の思い出に繋がる鎮魂句。


火花

火花

星祭

 二十四節気小暑」。いよいよ暑くなる頃の謂か。
 今日は「七夕」。新暦と旧暦と月遅れとあるが、最近は新暦の行事にすることが多いようだ。毎年、梅雨の最中で星空は思うべくもないが当地は今夜は晴れそう。最も、灯りがきつくて星空は見られないが。子どもの頃「天の川」を見た記憶はあるが、あれはまぼろしだったのかしらん。
 子どもの頃の「七夕」は、もちろん月遅れでお盆前の行事だった。村なかに竹藪は普通にあったから、一本いただいて笹飾りをした。里芋の葉の露を集めて墨を擦り願いごとを書く。こうすると習字が上達するという。近所の駄菓子屋で買った短冊の模様、器用な母のつるし飾りなどを思い出す。一夜明ければ笹飾りを川に流したのだが、あれは厄払いの意味もあったのだろうか。今なら環境悪化で叱られてしまう。
 俳句ではむろん旧暦の行事で季語も秋の部。今年は八月二十八日。空の澄んでくる頃である。

 昨夜、「月下美人」初咲き。去年も書いたがこの花は同じ日に何花が同時に咲く。昨夜は三花が咲いた。十三夜の澄んだ月夜で、まさに「月下美人」。




     星祭手を添へて書く願いごと





サングラス

茨木のり子の献立帖」・「茨木のり子の家」 
 この二冊ですっかり彼女の私生活に詳しくなってしまった。二冊とも写真集と短文である。前者には家庭人として家計のやりくりや料理に勤しむ彼女の献立表と日記。頻繁に表れるYという同伴者のことも含めて、若き日の活き活きした楽しげな家庭生活が伺われる。ここにはあの毅然たる近寄りがたいような「茨木のり子」は存在しない。それよりもなかなかの料理上手でいつもYを想う一人の女性の姿。後者は亡くなるまで暮らし続けた家の詳細。文人らしい落ち着いた雰囲気の室内である。彼女が前もって用意したと思われる「お別れのことば」の草稿も載る。そこにはやはり最期もしっかりと己の意思で締めくくろうとする毅然たる「茨木のり子」の姿がある。

 昨日、こちらは今年一番の暑さ。34・5度。蒸し暑く気温以上に過ごしにくかった。久しぶりの雨間だからHと畑の草取りを短時間頑張ったのだが、後がいけなかった。このところ誤作動を繰り返していたリビングのエアコンがとうとう駄目になった。夜はどうにか念力で動かしたが間の悪いことである。新しいのの取り付けは明後日。

東京都議選、他人事ながら溜飲が下がる。





     サングラス老化防止のこと言わず

 

茨木のり子の献立帖 (コロナ・ブックス 207)

茨木のり子の献立帖 (コロナ・ブックス 207)

茨木のり子の家

茨木のり子の家

七月

 「はつ恋」 ツルゲーネフ
 こんな古い本を出してきたのも、近頃は読みたいものがなかなか見つけられないから。図書館の書棚を見回しても小説家も俳人も歴史家も目に付くのは故人ばかり。好きだった人は大方鬼籍に入ってしまわれたのは、こちらも歳をとったせいか。
 先日何かの書評欄に上がっていたので思い出して読むことに。昔々学生の頃、読んだはずなのに何も覚えていない。多分ストーリーだけを追ってそれで終わったにちがいない。今だってたいしてかわりはないのだが、歳をとっただけにジナイーダの軽薄さも残酷さも身勝手さも若い女性の一面としてうんざりするほどよくわかる。こういうのを男性の目から見てありありと生き生きと描いたのだから、やはりツルゲーネフは凄い。
ところで、最終節の最後の部分がどうもわからない。貧しい老婆を送った後の述懐である。この辺はかれの宗教意識が書かせたところだろうか。書かずもがなという気がしないでもない。

今日、「半夏生」。半夏(カラスビシャク)の生える頃。一気に蒸し暑くなり階下でも冷房初入れ。
 H殿の西瓜初収穫。トマト・茄子・胡瓜・万願寺と続々と食べ頃。
 蝉の初鳴き。我が家では去年より一日早い。




     七月の青き水ゆく竹の奥   石原 舟月




はつ恋 (新潮文庫)

はつ恋 (新潮文庫)


 

梅雨

「蒲生邸事件」 宮部 みゆき著
 面白かったと人にも薦めてきたのが、この人の「火車」。「理由」と「模倣犯」も読んだがSF風仕立てのこの本にはなんとなく触手が動かなかった。以前読んだ本で、関川さんと鶴見さんが高評価されていたので読んでみようと思った次第。随分厚い本なのにぐんぐん読めたというのは面白かったということか。だがタイム・スリップという設定があまりにも非現実的で(そこはSFなんだから当然なんだが)冷めた気分は終始拭えなかった。鶴見さんは随分登場人物と同化していらしゃったようだけど、この時代を同じように生きた人だから故なきことかもしれない。今朝の新聞に筆者の文庫本「荒神」の宣伝があったが、近頃の筆者の作品は同時代を取り上げるものが少ないように思う。本当はそういうものを読みたいのだが。

 贔屓球団がやっと勝ちだした。交流戦後5勝1敗。僅差で勝つハラハラの展開だが、ようやく面白くなってきた。H殿もご機嫌である。




     梅雨深し靴に詰め込む新聞紙




蒲生邸事件 (文春文庫)

蒲生邸事件 (文春文庫)